こんにちは! インテック株式会社、代表の田所秀基です。
弊社は、柏市増尾台にお店を構え、地域の「住まいのかかりつけ医」として、床の張り替えや雨漏り修理、浴室の改修、屋根の葺き替え、増改築工事など、お家の様々な悩み・困りごとにお応えしています。
数多くあるリフォーム会社の中で当社が目指すのは、お客様の住まいの悩み・困りごとを解消し、一人でも多くの方に喜んでいただくことです。
1. フリーター時代、公務員試験の不合格
私は、大学進学で東京に上京し、卒業後は華々しい未来を夢見て東京の百貨店に就職しました。しかし、内向的な性格が災いし、わずか半年で退職を余儀なくされることに。ただ、いま振り返ってみると、当時の自分が未熟であっただけで、関係者の方々には本当にご迷惑を掛けてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
その後の1年半は、アルバイトを転々とする日々。将来についてあれこれと考えを巡らす中で、都市開発に興味を抱き、ある政令指定都市の公務員試験を受けることを決断しました。
そして、意を決して挑戦した公務員試験ですが、一次試験は無事合格。二次試験は面接だけであったので、「これで人生やり直せる!」、そう思い舞い上がっていました。ところが、その二次試験で、まさかの不合格。信じられない気持ちと同時に、「自分は社会不適合者なのではないか」と思い悩み、世界が真っ暗に。きっとどこかで、甘い気持ちがあったのだと思います。
「このままでは、自分は終わってしまう」。追い込まれた私はプライドを捨て、ゼロから這い上がっていこうと決意し、学生時代の就職活動中に最も避けていた不動産の営業職に就くことにしました。当時の自分には、選択肢が営業職しか残されていなかったというのが正直なところです。
2. 不動産会社に入社、売れない営業マン時代
もう後がなくなって入社した不動産会社でしたが、朝から晩まで飛び込み営業を繰り返し、契約を取るためにはどんな手段も厭わない同僚たちの中で、私は完全に場違いな存在でした。強引な営業が苦手な私は、半年経っても一件も契約をあげることができず、当然のことながら「給料泥棒」呼ばわりされる始末。
入社後3ヶ月くらいまではアポイントは取れていたため、なんとかなると思っていたものの、商談から契約に至らず、半年経っても契約がゼロ。
もう明日が見えず、涙を流す日が幾度も。人生で初めて絶望というものに襲われ、このまま人生を終えるのではないかという不安に押しつぶされそうになる日々が続きました。しかし、それでも「なんとかしないといけない」という思いだけが、私を支えていました。
そして、ある日、私はもう開き直るしかないと考え、クビを覚悟で会社から教わった方法ではなく、自分が思うやり方でやってみようと決断しました。
自分には押しの強い営業はできない。だから、とことん相手の立場になって考え、寄り添う営業を心がける。お客様の人生や夢に真摯に向き合い、本当に必要なものは何かを一緒に考える。そんな姿勢で臨むようになると、少しずつですが、結果が出始めたのです。
その後、「トップセールスになりました!」、と言えればカッコいいのですが、やはり売るための駆け引きや押しの強い営業が苦手な私は、トップセールスにはなれなかったものの、それなりの成績を上げることできるようになり、会社からも評価をされるようになりました。
3. 中古分譲マンションの仕入れ、リノベーション企画に従事
営業での経験を積んだ後、私のキャリアは新たなステージへと進みました。会社の中古分譲マンションの買取再販事業部へ異動が決まったのです。この部署では、物件の仕入れからリノベーションまでを一貫して担当することになり、私にとって大きな挑戦の場となりました。
主に東京都心部の中古分譲マンションの仕入れを担当し、立地や価格、将来性などを慎重に見極めながら物件を選定していきました。その後のリノベーション工事では、数百万円から2,000万円ほどの予算を任されるようになり、企画から施工管理まで幅広い業務に携わりました。
この仕事は、私にとって非常に充実したものでした。物件を見出し、その潜在的な価値を引き出すための企画を立て、実際に形にしていく過程は、創造性と実務能力の両方が試される、やりがいのある仕事でした。
特に印象深かったのは、協力業者さんや職人さんとのやり取りです。彼らの技術と経験から学ぶことは多く、時には厳しいやり取りもありましたが、互いの信頼関係を築きながら、質の高いリノベーションを実現していく過程は、私にとって大きな財産となりました。
この経験を通じて、「お客様の立場に立って考える」という姿勢がより一層身についたと感じています。単なる利益追求ではなく、将来そこに住む方々の生活を想像しながら企画を練り上げていく。
販売の立場を離れ、ある種、ものづくりの仕事に携わることができたことは、作り手の想いを知る意味でも大きな財産となりました。
4. 大手リフォーム会社に転職、手抜き工事の発覚
中古マンションのリノベーション事業で経験を積んだ後、私は新たな挑戦を求めて、外壁塗装や屋根工事を手掛ける大手外装リフォーム会社に転職しました。住宅の外装リフォームは、大切な家を長持ちさせ、守るための重要な仕事。その責任の重さに、やりがいを感じていました。
リフォームアドバイザーとして従事し始めた当初から、不動産会社時代の経験を活かし、お客様の立場に立った提案を心がけました。その結果、成績は入社半年でトップクラスに。お客様から喜ばれ、感謝される毎日は、非常に充実したものでした。
しかし、ある日、衝撃的な事実が発覚します。私が担当し、ご契約をいただいたお客様のリフォーム工事で手抜き工事が行われていたのです。原因を調べてみると、会社が協力業者に適正な費用を支払っていなかったことが判明しました。会社の利益を優先するあまり、品質が犠牲になっていたのです。
自分を信用して契約してくださったお客様が涙を流す姿を目の当たりにし、胸が締め付けられるような思いでした。「二度とこんな思いをお客様にさせたくない」。その思いが、私の中で日に日に強くなっていきました。
しかし、この出来事は一度では済みませんでした。再び同様の問題が発生。やはり根本的な原因は、会社が本来工事に必要な費用をしっかりと掛けていないことにありました。
夜も眠れぬほど思い悩んだ末に、一つの結論にたどり着きました。「自分でやるしかない」。お客様の信頼に応え、真摯に向き合うリフォーム会社を作るため、独立を決意したのです。
5. 独立、リフォーム会社の設立
独立を決意した後の道のりは、想像を遥かに超える厳しいものでした。
私は知人や前職のつてに頼るのではなく、完全にゼロから始めることを決意しました。それは、自分の使命感に基づいた会社を一から作り上げたいという強い思いからでした。
そのため、20年以上住み慣れた東京を離れ、縁もゆかりもない千葉県柏市を新天地として選びました。柏市を選んだ理由は、東京に近いながらも、新しい挑戦の場として可能性を感じたからです。
創業時は、不安で眠れない夜の連続でした。資金繰りは特に厳しく、貯金を切り崩しながら何とか運営していました。顧客獲得も容易ではありませんでした。知名度ゼロの新規企業に仕事を任せてくれる人がいるのか、毎日不安と闘っていました。施工業者とのネットワーク作りも一苦労でした。信頼できる業者を見つけ、関係を築くのに多くの時間を要しました。
すべてが手探り状態で、「この決断は間違いだったのではないか」と自問自答する日々も少なくありませんでした。家族を養っていけるのか、借金を背負うことになるのではないかという不安も常につきまとっていました。
しかし、そんな中でも、何者かも分からない私を信用してくださるお客様がいらっしゃいました。最初は小さな修繕工事から始まり、水栓の交換や床の張り替え、浴室の改修工事、屋根工事など、徐々に大きなリフォーム案件を任せていただけるようになりました。
一つひとつの仕事に真摯に向き合い、お客様の要望以上の成果を出すよう心がけました。そうして少しずつ口コミで評判が広がり、今では増改築工事まで手がけるようになり、事業は着実に成長していきました。
この過程で、自分のこだわりゆえに協力業者や職人さんとぶつかることも少なくありませんでした。品質にこだわるあまり、厳しい要求をしてしまうこともありました。しかし、それでも常にお客様の立場に立ち、最善の解決策を見出すよう必死に努力しました。時には妥協も必要でしたが、お客様の満足を第一に考え、協力業者や職人さんとの信頼関係も築いていきました。
まだまだ改善点はたくさんありますが、ここまで来られたのは、多くのお客様に支えられてきたからこそだと強く感じています。すべてのお客様への感謝の気持ちは言葉では言い表せないほどです。
私たちの使命は、お客様一人ひとりの暮らしに寄り添い、最高の癒しの空間を提供すること。そして、二度と後悔のないリフォームを実現することです。これまでの挫折と再起の経験すべてが、今の私たちを形作っています。
お客様の人生に深く関わる仕事だからこそ、誠実さと技術、そして情熱を持って取り組みたい。それが私たちの誇りであり、使命なのです。これからも、皆さまの笑顔のために、全力を尽くして参ります。
皆さまの快適な暮らしのパートナーとして、末永くお付き合いいただければ幸いです。皆さまの大切な空間づくりを、私たちにお任せください。
代表者紹介
一生消えない痛みが教えてくれたこと ーお客様の人生を預かる覚悟ー
あの日の痛みは、今でも鮮明に覚えています。
高校のサッカーグラウンド。
「ドン!」
強豪校のレギュラーとして、
数々の激闘を潜り抜けてきた僕の人生を、一瞬にして変えてしまった
「衝突」
グラウンドに倒れ込んだ瞬間、
「マジか・・・!」という思いがよぎり、
激痛と共に「何かが終わった」という不吉な予感が全身を走った。
「大丈夫だ、冷やして寝れば治る」
昭和の時代。
痛みを訴える僕に投げかけられたコーチの言葉は、そんな精神論だった。
コーチの車の後部座席で、必死に涙をこらえながら家に帰った夜。
激痛で眠ることすらできず、天井を見つめ続けた長い時間。
それは、僕の人生における最も長い夜だった。
翌朝、両親と訪れた総合病院。
「膝の前十字靭帯、半月板損傷」という診断。
そして、親戚の紹介という理由だけで選んだ医師による手術。
予定の倍以上かかった手術時間。
説明のない全身麻酔。
すべてが、今思えば「警告のサイン」だった。
「手術は成功です」
その言葉を聞いて、私は少し「ホッ」と安心した。
いや・・
その言葉を信じたかった。
「絶対に完治する!」
そう安心したかった。
でも、1年後。ただ歩いているだけで再発した痛みが、
その「成功」が嘘だったことを教えてくれた。
プロサッカー選手になる—。
幼い頃からの夢が、一人の医師の不適切な処置によって永遠に閉ざされた。
でも、親戚の紹介だったため、誰も文句が言えなかった。
ただただ、黙って受け入れるしかなかった。
後日訪れたスポーツ外科の専門医の言葉は、
僕たち家族の心に深い後悔の痕を刻んだ。
「手術の仕方が良くなかった」
「リハビリも間違っていた」
「そもそも、専門外の医師が手術したんですね」
帰り道の車の中。両親の後悔の言葉が、静かに車内に響いていた。
「最初からスポーツ外科の専門医に…」
「有名な病院だからって、安心しすぎた…」
「もっと早く気づいていれば…」
そして突然、両親から向けられた
「ごめんね」
という言葉。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
両親は何も悪くない。
むしろ、精一杯の愛情で僕のことを考えてくれていた。
「どうして謝るの?謝る必要はないよ」
「お父さんも、お母さんも、俺のことを心配してくれて精一杯やってくれて」
「むしろ、感謝しかない。ありがとう」
そう伝えると、母は泣いてました。
でも、後悔は取り返しがつかない。
「後悔先に立たず」とは、まさにこのことだと思いました。
今、リフォーム営業として仕事をする中で、
この経験は私の中で大きな教訓となっています。
「有名な病院」でも、担当医が適切でなければ
取り返しのつかない結果になるように、
どれだけ名の通ったリフォーム会社でも、
実際に担当する職人さんがいい加減であれば、
取り返しのつかない結果になるのです。
今でも時々痛む膝は、私に語りかけてくれます。
「私のお客様に、同じ後悔をさせてはいけない」
この痛みは、今の私の誇りであり、使命となっています。